2019年、夏、沖縄

約3年ぶり位に沖縄に行ってきた。石垣島をはじめとした離島がメインで、本島には立ち寄る程度だった。


沖縄不思議な二面性を持った場所だと思う。大学生時代に初めて訪れてから、おそらく10回近く訪れている場所ではあるが、その印象は変わらない。
「なんくるないさ〜」と南の島(というか東南アジア)特有のゆるい空気の流れる、リゾートとしての一面。そして、真逆とも言える哲学的なこと、政治的なことを考えさせられる重い一面。

 

20年前、Mr.Childrenは沖縄が持つ思索性の原因について「僕が初めて沖縄に行ったとき 何となく物悲しく思えたのは それがまるで日本の縮図であるかのようにアメリカに囲まれていたからです」と歌った。

www.youtube.com

 

初めて聞いたのが感受性の強い思春期だったせいであろうか、僕は沖縄に来るたびにこの歌を思い出してしまう。そして、沖縄の思索性の原因は「アメリカに囲まれているせいだ」と思っていた。だが、それだけが沖縄の思索性の原因でないことに今回の旅で気づいた。

 

というのも、単純に今回の旅では基地とそれに関するような施設、人を全く目にはしなかったらからである。にもかかわらず、何度か「物悲しさを覚えた」何故だろうか?

 

特に強く感じたのが、竹富島を訪れたときである。竹富島は琉球王国時代に島の伝説的な英雄である西塘により蔵元(行政)府が設置され八重山諸島の中心となっていた場所だったらしいのだ。

 

しかし、その事実を竹富島のビジターセンターで知った後、島を歩き回ってもその事実が信じられなかった。それは、琉球の歴史を示すような建物が島に残っていなかったというわけではない。逆である。過剰とも言えるぐらい、「我々が考える琉球の暮らし」を体現したような建物が島中に存在していた。そして、そんな過剰な「琉球感」に加えて点在する観光用の施設がこの島の嘘っぽさを加速させていた。一言で言うのなら、僕は「竹富島」という「琉球自体の暮らしが残っている島を再現したテーマパーク」に迷い込んだ気分になってしまっていたのだ。

f:id:s_s_satoc:20190826221728j:plain

 

この感覚はもしかしたら、僕が過敏なだけなのかもしれないとも思う。長崎に生まれ育ちすぐ近くに、オランダ村、ハウステンボスというイミテーションのオランダがあったから強く反応してしまっているだけのかもしれない。

それでも、テーマパーク化してしまってていた(ているように見えた)竹富島は、その過剰な「琉球感」が逆に「琉球の暮らしや文化」が失われつつあることを強く意識させた。

 

f:id:s_s_satoc:20190826222157j:plain

 


本物がすでにないから、本物に限りなく似ているイミテーションを本物があった場所に積み上げているように思えたのだ。

これが僕が沖縄に感じる「物悲しさ」の正体なのだと思う。
沖縄の持つリゾートとしての一面と歴史的な一面が絶妙に混じった結果、沖縄には「テーマパーク感」というべき独特の空気がある。それは、僕に強く失われてしまったものを想起させる。

 

 

琉球王国も、首里城も今はもうない。

f:id:s_s_satoc:20190826221354j:plain