物語にしないという抵抗

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京都アニメーションに対する放火事件が起こった。死者の数は34人と平成以降後最悪の死者数を出す放火事件となった。とても悲しい事件ではあるが、個人的に必要以上に反応しないように心がけている。


なぜならば反応しないことこそが同じような事件を起こさない最大の予防策だと考えるからだ。
この世の中には、理論的には説明不可能なただ理不尽なだけのものが確実に存在する。このような偶発的な悪意にさらされてしまった事件に対しては、偶発的であるがゆえに再現が困難でありその予防を企てる事は難しい。例をあげると、見知らぬ他人が旅行先で理由なく突然殴ってきた場合のことを考える。この場合、はじめての場所で見知らぬ人間から殴られると言う可能性はゼロではないものの想定することは難しく予防はほとんど不可能である。このほとんどありえないようなリスクに対して予防を行うとということはコストが見合わない(言いかえるなら、そのようなことまで用心を行うと何もできなくなってしまう)。

 

 

 

そして原因の考察が有用であるのは、似たような事件の予防を行える場合だけである。
それどころか、過剰な原因の考察、犯人像の分析などを行うことによりこの事件を大きな物語としてしまうことは、模倣犯を生む危険性がある。物語の登場人物になれていないと考える人間が、自分の人生の意味を持たせるために、自分の人生を物語とするために事件を起こす可能性があるからだ。

 

事件の繰り返される報道、考察、犯人像の分析などは誰のために行われているのだろうか?誰が望んだのだろうか?誰が物語を作りたいと思っているのだろうか?なぜ、物語にしようとしているのだろうか?
よく、考えたほうがよいと思う