GPL academy Tokyo 2019に行ってみた 〜俺たちは雰囲気でサプリを取っている〜

汝、自身を知れ

と誰か偉い人が言ったとか言ってないとかいう昨今ですが、俺の趣味の1つに自分の生体データを取るというのがあります。

既に、自分のDNAはシークエンスにかけたり、腸内フローラを調べたりしてその結果にニヤニヤしていたわけです(多少、健康管理に役立っています笑)。特に体調不良なんかはないのですが、調べることで自分のスペックの把握ができるのが面白いのです。

 

 そんな俺が今心をときめかせる検査がthe great plains laboratory(GPL) のOrganic acid testです。これを行うとあら不思議、俺のTCA cycleがどのあたりで止まっているのか、なにが原因で止まっている可能性が高いのか分かっちまう(可能性がある)というわけなのです。

マジかよ!ワンチャン俺のTCA cycleコハク酸で止まっている可能性もあるのかよ!

もしや、30超えてるのに10時間とか平気で寝ちゃうのはコハク酸デヒドロゲナーゼに異常があるせいなのでは…成田と羽田も2回くらい間違えたことあるし(一回は乗り逃したw)。

 


身体中にフマル酸が溜まっている悪夢を見るようになった俺は、と不安で9時間とかしか眠れなくってしまいましたw

そこで、GPL Academy tokyo

www.gplacademytokyo.com

に参加することにしたのです。

これは、GPLが世界各地で行なっている講習会みたいなもので、難解と噂のGPLの結果の読み方と実践的な治療方法を教えてくれというものです。幸いなことに、俺は他人に医療行為っぽいことをしてよい資格みたいなものを持っているという噂もあるので(極限までボカしていくスタイル)、ここで学んでまずは自分自身を治療してみようと考えたわけです。

 


真面目な話、色々サプリを摂取してみたのですが、全くと言って良いほどどれも効果を感じないのですよ。一応日本のサプリの品質管理は超いい加減なので、FDAが目を光らせているアメリカのものを輸入して使っているですが。唯一効果が感じられたのはMCTだけれど、これはサプリというよりも食品だし。

そして、実は多くの人も実は俺と似たような状況なのではないかと考えたわけです。つまり、雰囲気でサプリを取っているのだけれどその効果は特に実感はしていないが、惰性で取っているという状況です。この状況を打破し、効果的なサプリでスペックアップが望めるのか?それともそもそもサプリなんか要らないのか?確かめるためにトライをしてみることにしたのです。

 


後編に続く。

「『21世紀の戦争と平和』&『欲望会議』刊行記念イベントの雑な感想

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千葉雅也×三浦瑠麗×東浩紀「『21世紀の戦争と平和』&『欲望会議』刊行記念イベント」がとても面白かった。考えたことを雑に書く。思ったより長くなってしまったので今回はブログに書く。

 

live2.nicovideo.jp

 

1.戦争を起こさない為に徴兵制を行うことは是非は。


俺の結論は質問者の方意見(動画3時間59分)とほぼ同じで、あと数十年で人間対人間の戦争は終わると思うので現在は効果があってもすぐに意味がなくなるのではと思う。むしろ、ロボット対ロボットの戦争になったとき(戦争の機械化の割合が増えていったとき)、軽くなってしまった引き金を実感し逆効果になる可能性すらあると考える。ただ、非戦闘員に戦争の実感を与える方法(より一般化して体験を得ずして実感を与える方法。)を考えるのは重要だろう(動画2時間45分)。
また、動画内でも言及されていたけれど(動画2時間25分)、戦争を起こさないためには、互いの交流を図り、引き金を重くするとことがより大事なことのように思われる。日韓関係、日中関係を例に出すと、中国や韓国に友人がいる日本人は基本的にヘイト的な言動を行わない。

 


2.東さんの苛立ち


 今回の放送で何となくであるが、東さんの苛立ちの理由がわかったような気がする(動画1時間30分)。
東さんは恐らく、哲学が力を失いつつあること(その通りの内容が新記号論の巻頭言にもある)、それにも関わらず哲学者がやり方を変えないことに怒っている。もっと言うと、拝金主義がまかり通り、規範を失いつつある現在の状況に哲学者としてだれよりも責任を感じているように思える(動画)。東さんはこの時代にあった新しい思想を考え出すだけでなく同時にそれをなんとか現実社会にアプライしようと行動し続けている人だと思う(だから、著作を書くだけでなくチェルノブイリツアーなんかをやっている。)。だからこその怒りなのだろうと想像する。
 またこの状況を打破すべく、なんとか言葉を紡ごうとしても、当事者性を絶対視してしまうこの時代では公にできる言葉が著しく制限されてしまう(動画4時間26分)。まぁ、やる気なくなっちゃうのは当然だよなと思う。

 


3.家族についての議論


動画内で何度も千葉さんと東さんが議論を交わしているこの動画のメインとも言える内容(21世紀の戦争と平和、欲望会議出版記念じゃなかったんかいw動画3時間27分辺り)
もともとは、ゲンロン0観光客の哲学5章〜7章の内容の発展版みたいな内容。
ゲンロン0読んでなくても、とても面白い内容なので、是非動画を見てほしい。
東さんは個人でも国家でも階級でもない、第四のアイデンティティの主体として家族という概念は必要だと言う。この点については千葉さんも同意見のようである。しかし、千葉さんはその主体を家族と呼びたくないと強く反発をする。
これは三浦さんが指摘されている通り、言葉の色の問題だと思う。家族という言葉に何か強制的かつ密なコミュニュケーションを強要される集合をイメージそれに反発している。
一方東さんはそのようなイメージはないと反論している。確かに歴史的な経緯などを考えると家族に密なコミュケーションを想起してしまう(してしまう人がいる)現在の日本の状況の方が特殊な気がする。ので、東さんの方が筋が通っているように思える。が、ここまで嫌がる人がいるのなら別の言葉でもよいのではないかとも思ってしまう(千葉さんがtwitterで述べていたように「族」とか)。これを東さんが嫌がるのは、言葉の色についてわかっていない訳ではないと思う(あえて知っているけれど無視しているが近い)。言葉の定義に拘っていること、この言葉が哲学用語として一般化した時に最も議論が活発になりやすい言葉を通したいのだと思う。家族(family)についての議論は活発化しそうな気はするが、族(tribe?)についての議論は活発化しそうにない。族に帰属している人が少ないので。

 

 


タイトルと内容の違いは置いておくとして、とても面白い内容の動画だった。土曜までタイムシフトで見れるので木になる人は是非〜
と言うかこのようなアーカイブにする価値のある動画はいつでも買えるようにしてほしい(ニコニコのシステム上難しいのだと思うけれど)。

 

最近読み終わった、我々はなぜ我々だけなのか アジアから消えた多様な「人類」たち 

 

我々はなぜ我々だけなのか アジアから消えた多様な「人類」たち (ブルーバックス)

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のイベント見てぇ〜

 

Did She Cry Humanly? Did It cry Humanly?

だいぶ間が空いてしまいましたが、森博嗣のWシリーズについて語るシリーズ第三回です。今回はネタバレ前回でWシリーズ最終巻「人間のように泣いたのか? Did She Cry Humanly?」魅力について語ってみます。

 

 

人間のように泣いたのか? Did She Cry Humanly? (講談社タイガ)

人間のように泣いたのか? Did She Cry Humanly? (講談社タイガ)

 

 

 

 


今作は素晴らしすぎたので色々語りたいところなのですが(シリーズ最終作なのにアクション的には最もと言ってよいくらい地味というかほぼホテルに引きこもっているだけなところとかw)、得に印象的だったシーンに絞って語りたいと思います。

 

 


Did It cry Humanly?ではなく、Did She Cry Humanly?が正しいのか。


本作のタイトルにもなっている、ウグイがハギリの話を理解して泣くシーンです。

 

‘いつの間にか、彼女の頰が濡れていた。 ウグイは、それに気づいたのか、目を瞑り、片手で頰を拭った。どうかした?」僕は尋ねた。
なんでもありません」ウグイは声を震わせている。珍しいことだ。
「でも、泣いている。どうして?」 「大丈夫です」 「なにか、辛いことでも思い出した?」
「違います。悲しいのではなくて、嬉しいから……」ウグイは、言葉の途中で笑顔になった。
「どうして、涙が流れたのか、わからない」 「何が、嬉しいの?」
「はい、先生のお話が、その……、きちんとした考えだと思えて、そういうふうに、きちんと考えている人がいる、ということが、なんだか、とても嬉しく思えて……」’

 

 

とても感動的なシーンなのですが、作者の森博嗣が自身のHPでとても気になることを書いています。

www001.upp.so-net.ne.jp

 

‘もともと、英題の主語は、Itだったのですが、書き上げたあとでSheに変更しました。一言でいえば、「歩み寄った」という感じでしょうか。’

 

これを読んで後に気づいたことがあります。実はWシリーズは「人間」が殆ど出ていない物語だったのです。考えてみれば、一応作中で人間であると明言されているハギリにしてもボッシュにしても、人工細胞に体内細胞のほぼ全てを入れ替えていて無限に近い寿命を入れ替わる代わりに、生殖能力を失っています。これは我々が現代イメージをする人間像とは大きく異なっています。極論、人間とウォーカロンとの違いはポストインストールを受けているか否かだけのように思います。

 

けれども、私は上記のシーンでハギリとウグイが人間になったのだと思います。なので、itはなく、sheにタイトルが変更になったのではないでしょうか?しかし、この瞬間にハギリとウグイの体細胞が一瞬でNaturalなものに入れ代わったわけではありません。ヒントは終盤でハギリがマガタにした質問にあります。

 

‘「あの、失礼を覚悟でおききしますが、博士は、人間でしょうか?」僕は尋ねた
「はい」彼女は即答した。
「それは、失礼な質問ではありません。誰に対しても、また、自分に対しても、いつでもそれを問うことが、人間というもの」 ‘

 

この質問が出ること、そして自分自身が人間であるか否かと問うことこそが人間であることだとマガタがは述べています。Wシリーズ内で何度もハギリとマガタは出会います。しかし、ここで初めてハギリはマガタに「あなたは人間であるのか?」と質問しているわけです。そして、ハギリはウォーカロンと人間を区別する装置の開発者ではありますが、一貫してその2者の本質的な違いについては懐疑的でウォーカロンが人間になりつつあるという論文を作中内でも発表しています。つまり、この質問を行う直近に強く自分が人間であると自覚する出来事があったということです。おそらくエピローグで回想するこのシーンなのでしょう。

 

‘繰り返し考えてしまうのは、あのときのことだ。
ウグイが一度ハッチを閉めて、僕に飛びついてきたとき。  
ああ、人間というのは、こんな無駄なことをするものだったのか、と思った。  
未発見の自然現象を見つけたみたいに、思ったのだ。  
それを思い出した。  
ウグイの腕力を、まだ躰が覚えていた。
デボラに、教えてやりたくなった。
その感覚を、人工知能がどう理解するのか、どんな理屈で解釈するのか、興味があったけれど、そうではない。
理解するものではないのだ。
そこが、大事なところだろう。
何故、大事なのかは、よくわからないけれど、そもそも、わかるものではない、というのが正しい。
否、正しいことなんて、どうだって良い。’

 

このシーンではウグイが人間である、だからこんな無駄なことをしているのだと述べているのですが、同時にウグイの行動に心を動かされ、いつまでもその時の感覚を忘れられない自身の不合理性にも自覚的であるように思うのです。

これは、ウグイの側も同じだと思います。冒頭で紹介したシーンで、
ハギリの話がきちんとしている。きちんと考えている人がいる。だから嬉しくて泣いてしまう。これは一見不合理なことであるし、ウグイ自身も自分の思考を解釈も理解もできないでしょう。
けれど、言語化できないなにかがに伝わった、と感じることができる。
それが、人間であると描いているのではないでしょうか?

 

次回最終回(予定)、森博嗣ユニバース作品の完結巻としてのWシリーズの魅力について語ります。

現代中国の裏側〜「暗黒・中国」からの脱出 逃亡・逮捕・拷問・脱獄〜

 

「暗黒・中国」からの脱出 逃亡・逮捕・拷問・脱獄 (文春新書)

「暗黒・中国」からの脱出 逃亡・逮捕・拷問・脱獄 (文春新書)

 

 

 

社会運動家について本の2冊めは「「暗黒・中国」からの脱出 逃亡・逮捕・拷問・脱獄」である。この本は訳者の安田峰俊さんの別の作品「さいはての中国」がとても面白かったので、読むことにした本だ。

 

さいはての中国 (小学館新書)

さいはての中国 (小学館新書)

 

 

 

余談だがこの「さいはての中国」の帯にはデカデカといってはいけない!と書いてあり(正直この帯でとても損していると思う)、ヘイト本の類か?と敬遠していたのだけれど、「深センをさまようネトゲ廃人」(筆者は本文中でサイバー・ルンペンプロレタリアートと表現している)というパワーワードに負けて読んだという経緯がある。この本もとても面白いので読んで欲しい。

 

 

さて、「「暗黒・中国」からの脱出 逃亡・逮捕・拷問・脱獄」である。この本は訳者の安田さんが、バンコクで知人のつてで筆者の顔伯鈞氏と出会うことから始まる。
顔氏はもともと、中国共産党の最高学府・中央党校の修士課程で学んだいわゆる共産党のエリートだった。卒業後政府で勤務するも、行政の現場に失望し北京工商大学の副教授に転職。政府組織「公盟」(公民)に加わり新公民運動に参加をしていた。習近平政権の発足と時を同じくして、新公民運動の活動積極化し、顔氏を含む支持者たちが「党官僚の財産公開」を求めて街頭に出るようになっていたことが原因となり、中国当局に追われる身となる。中国各地を2年間にわたり逃亡し、最終的にタイに亡命をする。そして、そこで安田さんと出会うのである。

 

 

「「暗黒・中国」からの脱出 逃亡・逮捕・拷問・脱獄」は顔氏の逃亡劇である。前回書いたマリア・アリョーヒナ

ひとりの女性が革命家になるまでの物語 〜プッシー・ライオットの革命 自由のための闘い〜 - Way to spin the fragment

と違い顔氏は、最初から成熟した人格として描かれている。なので、この本は成長譚ではない。そんな本書の魅力は以下の3点だと思う。

 

1点目はアクション小説としてである。前述の通り、顔氏は中国当局から追われることになるのだが、密航を行なったり、拘束中に隙をみて窓の外から脱走したり、あげく冬のチベットを越えようとしたりとまるでミッションインポッシブルなのだ。これが実際に起こったことだというのだから驚きを禁じ得ない。

 

2点目は中国の辺境の地の旅行記としてである。顔氏は当局から逃げる為に、回族(中国のイスラム教徒)の村や、ミャオ族の自治州、チベット、ミャンマーの軍閥などを旅をする。そして、逃亡の身のため現地に溶け込むためその視点からの描写が面白い。特にミャンマーの軍閥についての記述は勉強になった。

 

最後に顔氏の冷静な思考である。彼は中国当局に追われている身なのに、感情的にならず極めて冷静に現代の中国について分析をしている。本書の「おわりに 原作者より」は必読だ。

 

アクション小説好きにも、現代中国の事情を知りたい人にもオススメの一冊である。

 

追記)顔氏のその後については下記のリンク


ひとりの女性が革命家になるまでの物語  〜プッシー・ライオットの革命 自由のための闘い〜

 

プッシー・ライオットの革命 自由のための闘い

プッシー・ライオットの革命 自由のための闘い

 

 

偶然革命家というか、社会運動家について本を連続して読む機会があり、どちらもとても面白かったので感想を書こうと思う。
1冊目 はプッシー・ライオットの革命 自由のための闘いである。
正直プッシーライオットについてはワールドカップの決勝戦によくわからない理由で乱入した集団というイメージしかなかった。

 



このよくわからない要求を含めて明らかになるのではと、期待を込めて読み始めた。


この本はプッシーライオットのメンバーの1人であるマリア・アリョーヒナがロシア正教の救世主ハリストス大聖堂でゲリラライブを行った罪で逃亡の末に捕まり、釈放されるまでの手記である。

 

最初に書いておくとこの本の始め100ページくらいは面白くない。というのもどうして、彼女がゲリラライブを行うことにしたのか?何の為に戦っているのかさっぱり理解できないのである。ロシア語を訳した本なので、言語の問題か?とも思ったがそうでないと途中で気づいた。

 

恐らく彼女は特に大きな志や変えたいことがあるわけではなく、「プーチンムカつくわw」ぐらいの軽いノリでライブを行ったのではないだろうか。その結果は彼女の想像を超えていて、逃げ惑った結果に捕まるのである。俺が理由を理解できないのもある意味当然で、最初から無いものは理解できない。

 

しかし逮捕されたことを契機に徐々にその様子が変わってくる。明らかに文書がわかりやすくなっていくのだ。彼女は刑務所に捕まった後に、刑務所内の不正と戦うことにするのだけれど、その戦う理由も明確で戦い方もスマートになっていくのである。

 

彼女の成長はなぜ起こったのだろうか?
本文を読むと裕福な家の出ではない筈の彼女が、刑務所内でタバコを切らした様子がないことに気づくし、しっかりした弁護士がついているのがわかる。
調べてみると、彼女達の逮捕は不当であるとして相当の支援が集まっていたらしい。つまり、拘留後に知識のある人間との交流をもったのではないか?
また、


護送車で読むための朝刊、ナージャに渡すためのドゥールズの「資本主義と分裂症」(本文p133)


という記述があったり


「彼女、すごく感じ悪いし、私たちには関心がないみたい。ただ座ってレーニンを読んでるだけ」(本文p247)


と陰口を叩かれていることから想像するに収監中にかなりの量の本を読み込んでいると思われる。つまり刑務所という環境が彼女を成長させているのだ。

 

これはとても皮肉なことだと思う。政治犯として収監された女性が、思考を矯正されるどころから、革命家として育っていくのだから。


本書のクライマックスで彼女は刑務所内での非人道的な行為に対してハンガーストライキを行う。そこで、彼女は彼女の行動理由について明文化し自覚するシーンがある。その言葉で本文を締めくくろうと思う。


私はこんなふうに生きていたい
私のうしろにあるのは、それが何であろうと、
自由と真実にまつわるものであるということ。
こうゆうことを口にしたときに、
その言葉が吸い込まれていってしまうような虚しさではなくて。

Wシリーズの魅力をダラダラ語る

驚くほど反響がなかったことにそこそこ傷ついていますがw

色々見なかったことにして書き続ける、森博嗣のWシリーズについて語るシリーズのその2です。今回はネタバレなしでWシリーズの魅力について語ってみます。

 

 

 

1回目はここです。

 

Wシリーズは未来の世界を舞台にしたミステリです。ですが、ミステリと言っても古典的なミステリではなく殺人もほぼ起こりません(そもそも舞台となっている世界では殆ど人が死なないくらい技術革新が起こっている)。ミステリのタイプとしてはQ.E.D.とかC.M.B.とかに近い感じです。この謎解き自体も面白いのですが、それ以外の魅力について書いてみます。

 

1.SFとして面白い

Wシリーズは現在からザクッと2〜300年後くらいが舞台になっています。当然我々からみて未来の世界が描かれているわけですが、その描写がとても今まで体験したどんな本、映画よりリアルなのです。
森博嗣が工学博士で、サイエンス方向に明るいからだと思いますが現在の技術としっかりつながった200年後の世界がそこにあります。俺は専門がバイオの端なのですが、描かれているバイオ技術がどれも100〜200年後に実現していそうだなと感じます。
一例を出すと人類は疾病治療や老化防止のために、細胞を徐々に’pure’な人工細胞に入れ替えます。その細胞には思わなく副作用があったのですが…というストーリーです。俺なんかはこの細胞のエピソードで、2016年に確立されたminiml cell

 


を思い浮かべます。

また、その未来の世界の描写をその次代に生きている人の目から描いているのがその描写がとても上手いのです。


例えば、以下は「私たちは生きているのか? Are we under the BIofeedback? 」の冒頭部の一説です。

 

”ただ迫力はあった。CGではないのだ。どうしてかというと、いかにもフィルムが古くて、CGのようにリアルでも鮮明でもない。もっと近くで見せてほしいと思っても、カメラが寄っていかない。ここぞという場面なのに、カメラの前を人が通り過ぎたりする”

 

とあります。この一文は今を生きている私達には引っかかる一文です。逆ではないかと。ただ、これはCGと実写が見分けがつかなくなった未来においてはこのような感性になるのではないでしょうか?
つまり、作り物かCGかは現在のように映像のクオリティで見分けはつかない。むしろ、鮮明ではっきりした画像はCG だと思ってしまう。そうではなく、そこに人為が入っているのか否かがCGか生撮影によるものなのかという判断基準になっているということです。故にズームもない、撮りっぱなしの映像にかえった迫力を感じるという感性に未来のにんげんはなっているのです。

 

 

2.普遍的なテーマを状況が大きく変わった未来で語っている
作中では、人間とは何か?知性とは何か?生きるとは何か?といった普遍的なテーマが繰り返し語れます。
しかし、例えば生きるとは何か?を語ろうと思ってもWシリーズで語られる200年後の世界では、人類は医療技術の革新により死をほぼ克服しています。そのような状況で生きるとは何か?を語ることは意味がないように一見思えます。
ですが、「死なない」がゆえに死を単純な対比として使うことで生を語ることができない。故に、よりpureに生について語ることができるのです。下記は「私たちは生きているのか? Are we under the BIofeedback?」の一節です。

 

私たちは生きているのか? Are We Under the Biofeedback? (講談社タイガ)

私たちは生きているのか? Are We Under the Biofeedback? (講談社タイガ)

 

 

 

”生命の成立ちは、結局は有機反応の複雑さにあるといえるだろう。したがって、どこからが生きていて、どこからは生きていないと一線を引くことは困難だ。それが正解だと思う。つまり、相対的なものであって、比較的生きている、比較的生きていない、といった評価をするべき事象だということ。しかし、ここで問題になるのは、生きている状態から生きていない状態へのシフト、すなわち死というものの不可逆性である。これは、単にエントロピィ増大の法則として解釈するだけで良いものだろうか。 ペンを立てるのは難しい。ちょっとした振動で簡単に倒れてしまう。しかし、どんなに揺すっても、倒れたペンが偶然立つことはない。滅多にない。ここに確率的な稀少 性というものがあって、これらが多数複合することで、死から生への帰還が不可能と観察される”

 

生というのが連続的なもので、その連続的な流れの中の不可逆的に思える一点として死があったのではないかと語れていています。この発想は死の逆として生を捉えている限りは出てこないものです。
同じように人類以外のnaturalな動物がほぼ絶滅してしまったが故に、人類とは何か?が、人類よりも記憶力にも思考力にも優れたウォーカロン(人造人間のようなもの)、トランスファ(ネットワーク上の凡用AIのようなもの)が存在しているが故に知性とは何か?を明確に語ることができるのです。

以上Wシリーズの魅力をダラダラと語ってみました。

 

次回は(誰も期待していない)最終回。ネタバレ全開でWシリーズの考察と感想を書きます。

Wシリーズをさらに面白く読むための森博嗣本ガイド

 

彼女は一人で歩くのか? Does She Walk Alone? (講談社タイガ)

彼女は一人で歩くのか? Does She Walk Alone? (講談社タイガ)

 

 先日ツイートもしましたが、この間完結した森博嗣のWシリーズ(全10作)があまりに面白かったので勢いで書くことにしました。思った以上に長くなったので、3回に分けることにします。第1回目はWシリーズをさらに面白く読むための森博嗣本ガイドです。

 

 

 

 

Wシリーズが面白いのに、いまいちマイナなのはWシリーズが森博嗣ユニバースとも言うべき大量の著作の最新シリーズに当たり、敷居が高いと思われているからじゃないかと思っています(想像)。が、実はそんなことはありません。読んでたほうがより面白いのは確かですが、Wシリーズから読み始めても全然OKです。過去作の登場人物もほぼ出てきませんし。ただ、今から言うことはWシリーズを読むべきで大事なことなので覚えておいて下さい。

 

 

 

「真賀田四季という天才が色々やってた」

 

 

 

これです。大事なことなので、もう一度言います。

 

 

 

「真賀田四季という天才が色々やってた」

 

 

 

これだけ覚えておけば楽しめます。

アホか?余りに、荒すぎるという諸兄は百年シリーズの最初の2作、「女王の百年密室」と「迷宮百年の睡魔」を読んで下さい。スズキユカの漫画版も素晴らしいのでそっちでも良いと思います。というか、俺は漫画版を勧めます。

 

女王の百年密室 (幻冬舎コミックス漫画文庫)

女王の百年密室 (幻冬舎コミックス漫画文庫)

 

 

 

迷宮百年の睡魔 (幻冬舎コミックス漫画文庫)

迷宮百年の睡魔 (幻冬舎コミックス漫画文庫)

 

 

 注意して欲しいのがこの2冊が面白かったとからといって百年シリーズ3作目「赤目姫の潮解」を読んではいけません。

「赤目姫の潮解」は森博嗣版、ドグラマグラとも言うべき著作で読み解けば凄く面白いのですが、初見だと意味不過ぎて挫折する可能性がありますw

 

赤目姫の潮解 LADY SCARLET EYES AND HER DELIQUESCENCE (講談社文庫)

赤目姫の潮解 LADY SCARLET EYES AND HER DELIQUESCENCE (講談社文庫)

 

 

 

赤目姫の潮解 (バーズコミックス スペシャル)

赤目姫の潮解 (バーズコミックス スペシャル)

 

 

 「赤目姫の潮解」もWシリーズとちゃんと繋がりがあるのですが、これもきちんと読み解かなねば認知不可なレベルですw

あと、余裕があるのならS&Mシリーズ一作目の「すべてがFになる」を読んで下さい。

「すべてがFになる」は有名で、漫画、ドラマ、アニメ、ゲームなどになっているので好みのやつをやればよいと思います(私は原作小説以外未体験)。

 

すべてがFになる (講談社文庫)

すべてがFになる (講談社文庫)

 

 

これで面白くなったら、Wシリーズを読んだ後に各シリーズを読めば良いと思います。

 

 

まとめると

「女王の百年密室」

「迷宮百年の睡魔」

「すべてがFになる」

を読めばWシリーズを楽しむには十分です。優先度は上から降順となります。

では、次回はWシリーズの魅力をダラダラ語ります。