Did She Cry Humanly? Did It cry Humanly?

だいぶ間が空いてしまいましたが、森博嗣のWシリーズについて語るシリーズ第三回です。今回はネタバレ前回でWシリーズ最終巻「人間のように泣いたのか? Did She Cry Humanly?」魅力について語ってみます。

 

 

人間のように泣いたのか? Did She Cry Humanly? (講談社タイガ)

人間のように泣いたのか? Did She Cry Humanly? (講談社タイガ)

 

 

 

 


今作は素晴らしすぎたので色々語りたいところなのですが(シリーズ最終作なのにアクション的には最もと言ってよいくらい地味というかほぼホテルに引きこもっているだけなところとかw)、得に印象的だったシーンに絞って語りたいと思います。

 

 


Did It cry Humanly?ではなく、Did She Cry Humanly?が正しいのか。


本作のタイトルにもなっている、ウグイがハギリの話を理解して泣くシーンです。

 

‘いつの間にか、彼女の頰が濡れていた。 ウグイは、それに気づいたのか、目を瞑り、片手で頰を拭った。どうかした?」僕は尋ねた。
なんでもありません」ウグイは声を震わせている。珍しいことだ。
「でも、泣いている。どうして?」 「大丈夫です」 「なにか、辛いことでも思い出した?」
「違います。悲しいのではなくて、嬉しいから……」ウグイは、言葉の途中で笑顔になった。
「どうして、涙が流れたのか、わからない」 「何が、嬉しいの?」
「はい、先生のお話が、その……、きちんとした考えだと思えて、そういうふうに、きちんと考えている人がいる、ということが、なんだか、とても嬉しく思えて……」’

 

 

とても感動的なシーンなのですが、作者の森博嗣が自身のHPでとても気になることを書いています。

www001.upp.so-net.ne.jp

 

‘もともと、英題の主語は、Itだったのですが、書き上げたあとでSheに変更しました。一言でいえば、「歩み寄った」という感じでしょうか。’

 

これを読んで後に気づいたことがあります。実はWシリーズは「人間」が殆ど出ていない物語だったのです。考えてみれば、一応作中で人間であると明言されているハギリにしてもボッシュにしても、人工細胞に体内細胞のほぼ全てを入れ替えていて無限に近い寿命を入れ替わる代わりに、生殖能力を失っています。これは我々が現代イメージをする人間像とは大きく異なっています。極論、人間とウォーカロンとの違いはポストインストールを受けているか否かだけのように思います。

 

けれども、私は上記のシーンでハギリとウグイが人間になったのだと思います。なので、itはなく、sheにタイトルが変更になったのではないでしょうか?しかし、この瞬間にハギリとウグイの体細胞が一瞬でNaturalなものに入れ代わったわけではありません。ヒントは終盤でハギリがマガタにした質問にあります。

 

‘「あの、失礼を覚悟でおききしますが、博士は、人間でしょうか?」僕は尋ねた
「はい」彼女は即答した。
「それは、失礼な質問ではありません。誰に対しても、また、自分に対しても、いつでもそれを問うことが、人間というもの」 ‘

 

この質問が出ること、そして自分自身が人間であるか否かと問うことこそが人間であることだとマガタがは述べています。Wシリーズ内で何度もハギリとマガタは出会います。しかし、ここで初めてハギリはマガタに「あなたは人間であるのか?」と質問しているわけです。そして、ハギリはウォーカロンと人間を区別する装置の開発者ではありますが、一貫してその2者の本質的な違いについては懐疑的でウォーカロンが人間になりつつあるという論文を作中内でも発表しています。つまり、この質問を行う直近に強く自分が人間であると自覚する出来事があったということです。おそらくエピローグで回想するこのシーンなのでしょう。

 

‘繰り返し考えてしまうのは、あのときのことだ。
ウグイが一度ハッチを閉めて、僕に飛びついてきたとき。  
ああ、人間というのは、こんな無駄なことをするものだったのか、と思った。  
未発見の自然現象を見つけたみたいに、思ったのだ。  
それを思い出した。  
ウグイの腕力を、まだ躰が覚えていた。
デボラに、教えてやりたくなった。
その感覚を、人工知能がどう理解するのか、どんな理屈で解釈するのか、興味があったけれど、そうではない。
理解するものではないのだ。
そこが、大事なところだろう。
何故、大事なのかは、よくわからないけれど、そもそも、わかるものではない、というのが正しい。
否、正しいことなんて、どうだって良い。’

 

このシーンではウグイが人間である、だからこんな無駄なことをしているのだと述べているのですが、同時にウグイの行動に心を動かされ、いつまでもその時の感覚を忘れられない自身の不合理性にも自覚的であるように思うのです。

これは、ウグイの側も同じだと思います。冒頭で紹介したシーンで、
ハギリの話がきちんとしている。きちんと考えている人がいる。だから嬉しくて泣いてしまう。これは一見不合理なことであるし、ウグイ自身も自分の思考を解釈も理解もできないでしょう。
けれど、言語化できないなにかがに伝わった、と感じることができる。
それが、人間であると描いているのではないでしょうか?

 

次回最終回(予定)、森博嗣ユニバース作品の完結巻としてのWシリーズの魅力について語ります。