福島第一原発の視察(見学)に行ってきた。その4 語られるべき物語

前回、

福島第一原発の視察(見学)に行ってきた。その3 第三者を受け入れる理由 - Way to spin the fragment

人が訪れた場所について語ることで物語が生まれ、生まれた物語は未来の人々の為になりうるのではないかと述べた。今回はチェルノブイリと福島について生まれつつある物語について書いてみたいと思う。

 

僕が福島第一原発で、原発の現状について説明を受けるときにとても気になったのが説明の度に「謝罪」が行われたことである。特に印象的だったのが、第2回の記事に書いた事故のあらましについてのムービーの冒頭である。僕は今までここまで映像と音響効果を使った、迫力のある「謝罪」を僕を見たことも聞いたこともない。


そもそも、謝罪とはある主体が別のある主体へ「謝罪の意」を伝達するために行うものである(と少なくとも僕は思っている)。主体が個人の場合も集合である場合もありうるが、主体が集合であり、個人が代表して行う場合、その個人がその集団の代表であるというある程度のコンセンサスが必要だと思う。そう考えると、ムービーの音声は何を代表していだろうか?そして、その音声が事故を起こした主体の代表であるというコンセンサスはあるのであろう?少し考えてしまった。

 

話が少し脇道にそれてしまった。一方チェルノブイリではどうだったかと思い出すと、事故を起こしてしまったことについての謝罪を受けたことは少なくとも僕の記憶ではない。

 

この違い(というかチェルノブイリで謝罪が行われなかった理由)について少し考えてみたいと思う。というのも、この考察を行うことでチェルノブイリと福島の我々第三者が受けとる体験の違いが明らかになるような気がするからだ。
端的には、以下の2つの理由で説明しうると考える。
1.謝罪を行う主体が自分が謝罪を行う側であると認識していない。 
2.謝罪を行う側が「我々外部の人間」を謝罪対象であると認識していない。 
である。以下詳述する。

 

1.謝罪を行う主体が自分が謝罪を行う側であると認識していない。
であるが、福島では今回の視察・見学は全て東京電力によって行われた。故に視察の主催者側が、自身を加害者側であると認識していても不思議ではない。一方チェルノブイリは複雑だ。そもそも、事故を起こしてしまった当時の国(ソ連)はなくなってしまっており、その国の直接的な後継者であるロシアと廃炉すべき原発があり、廃炉を行っているウクライナとは犬猿の仲である。加えて、現在の原発に関わる人間がとても多様であることも(ゲンロン側がそのように見せてくれていたというのも大きい)その原因であろう。つまり、チェルノブイリは事故について説明する主体が多様なのである。
一例を上げると福島の廃炉資料館の運営母体は東京電力である。一方、チェルノブイリ博物館は元々、チェルノブイリの事故の際に活躍した消防士を慰霊することが目的で始まったものである。この違い展示内容にも大きく影響を及ぼしている。
以下の写真は上が廃炉資料館、下がチェルノブイリ博物館である。

 

f:id:s_s_satoc:20190926000013j:plain

福島の廃炉資料館。新しくて綺麗。

 

f:id:s_s_satoc:20190926002805j:plain

チェルノブイリ博物館。美術館の様。


廃炉資料館はおしゃれでさっぱりしていて、わかりやすい。
一方チェルノブイリ博物館は博物館ではあるが、美術館の様でもある。故に、ガイドの解説がないことには上手く展示の内容が理解できない。これは、伝えたいメッセージが複雑であるということの裏返しでもある。

 

2.謝罪を行う側が「我々外部の人間」を謝罪対象であると認識していない

チェルノブイリのツアーに現在、参加する人間の殆どは外国人(確か、ポーランドまたはドイツ人が一位だったと記憶している)らしい。
一方、福島の見学者のうち、外国人が占める割合は1割程度らしい。
上記の謝罪が「同じ大地に住む人間への大地に大きなダメージを与えてしまったことに対する謝罪」であると仮定するならば、同族とみなされていない人間は謝罪の対象外になる。


超簡単に言うと、例えばブラジルで事故が起こったとして、ブラジル人じゃない人間(例オーストラリアの人間とか)が「何で事故なんか起こしたんだ!」ってキレるのは少し違和感あるよねという話。
話を元に戻すと、謝罪があるなしは主な見学対象者を誰にも想定していのかという違いが現れているとも言える。端的にいうと、チェルノブイリは開かれていて、福島は閉じている(内向きだからこそ謝罪がある)。


以上まとめると、それぞれの体験はチェルノブイリは複雑で開かれていて、福島はシンプルで閉じている。

では、それぞれの体験から我々が語る物語はどのような物になるだろうか?

福島の体験から我々が語る物語はシンプルな人間の過ちの物語だと思う。巨大な力をコントロールできると思っていた、そして想定以上のことが起こってしまった。驕ってはいけない。二度とこのような事故を起こしてはならない。そんな物語だ。

この物語自体は悪くないないと思う。この物語を受け取った未来の人々はきっと強く自身を戒めるだろう。

 

しかし、僕は少し物足りないなと思ってしまう。というのも、優れた物語は多面性を持つことで、複数のメッセージを伝えうるからだ。キリストの歩みが贖罪であると同時に、救いの旅であるように。


では、福島の物語は戒め以外のどのようなメッセージを伝えうるのだろうか。

この動画はチェルノブイリの新石棺の作成風景に関する動画だ。

 



チェルノブイリの新石棺は作業者の被爆量を下げるためにすこし離れたところで、組みたてを行い、レールに沿って目的地まで動かすという、世界唯一の技術が使われている。注目すべきは作業者の人たちの表情だ。彼らの表情は誇りと自信が伺える。


僕はこのような表情が福島でも見られ、そして多くの人間に伝わればよいなと思う。
彼らがやっていることは、できるかどうかも定かではない廃炉作業に立ち向かい、未来の人間に安全な土地を返す誇り高い仕事なのだから。

これが福島の伝えうるもう一つのメッセージなのではないだろうか。それは、挑戦と克服の物語だ。

 

未来の人々が福島の物語から学び、自身の奢りを戒め起こり受け事故を未然に防ぐ。それは素晴らしいことだ。だが、それでもいつかは何かしらの事故が起こってしまうだろう。どんなことにも100%ということはあり得ないのだから。その事故はナノテクやバイオなどが関わる、今の我々には事故そのものが想像できないような類のものかもしれない。そして想像できない事故の解決方法は提示することは不可能だ。けれど、立ち上がり方なら伝えることはできるかもしれない。

 

未来の誰かが未曽有の事故に打ちひしがれる。そんなときに、福島の物語を思い出す。その物語が戒めだけでなく、挑戦と克服の物語であったのなら彼らはきっと立ち上がるだろう。俺たちは福島も乗り越えたのだから大丈夫だと呟いて。

そんな光景がどこかであれば良いなと願う。たとえ、その光景が今を生きる僕らが決して目にすることができないはるか未来であったとしてもだ。

f:id:s_s_satoc:20190926113136j:plain

 

福島第一原発の視察(見学)に行ってきた。その3 第三者を受け入れる理由

前回

福島第一原発の視察(見学)に行ってきた。その2 - Way to spin the fragment

は福島視察について大まかな流れについて書いた。今回と次回はチェルノブイリと福島から得られた体験の違いについて論じてみたいと思う。

 

まず大事な前提がある。僕は福島についてもチェルノブイリについも「外の人間である」ということだ。


僕は去年の6月にチェルノブイリに行っている。そして今回福島第一原発に視察に行っている。また、バックグラウンドが医療者で研究者であること(加えて僕の出身地)を考えれば、福島の事故について人一倍考えのある人間のように思われるかもしれない。が、むしろ真逆である。というのも、事故が起こったときに震源地とは遠く離れ場所におり、地震にも直面していない。

なので誤解を恐れず言えば、事故の当時私の生活何も変わらなった。事故の重大についても、実体験よりも周りの人間や社会の変容を観察した結果から、間接的に実感している。その意味で、チェルノブイリからも、福島からも僕は等しく第三者であり、観光客である。


チェルノブイリは観光地であった。福島に行った後だから強くそう思う。そして、観光地であるという意味には2つのレイヤがあると思う。

f:id:s_s_satoc:20190921173449j:plain

チェルノブイリのゲート。各種お土産を売っている。



浅いレイヤとはこの記事にあるような、僕らが一般的に意味するようなレイヤのことを意味する。お土産もの屋があり、ツアーがいくつも観光され、ツアーの中で二日酔いが抜けない観光客が眠気眼を開きながらガイドの説明を夢うつつで聞く、そうすることで経済が回っているという状態のことである。
一方深いレイヤの観光地という意味は、もう少し抽象的だ。簡単にいうと「第三者を受け入れる準備ができている場所」のことである。
この2つのレイヤを切り離すことは難しい。なぜならば、「第三者を受け入れる準備ができている」ということは同時に浅いレイヤの観光地であることを許容することに等しいからだ。

 

f:id:s_s_satoc:20190921174319j:plain

 



人間は非常に多様であり、我々が普段想像している以上に思考が異なっている。故に、その人間がどのようなことを考えてどのように行動をするのかを短い時間で予測することは不可能である。この事実を観光地に当てはめると、第三者を受けいれた場合一定数観光地の人間が望まない反応を起こすこということになる。事実、チェルノブイリでも上記の記事のようなことが起こっているし(ウクライナに住む大部分の人間が望む反応ではないと予想する)、歴史的な遺跡にもくだらない落書きが残されていたする。

では、このような望まない反応を起こしうる危険性を犯してまで第三者を受けいれることにメリットはあるのであろうか?

 

f:id:s_s_satoc:20190921174605j:plain

猫も人間と同じくらいお互いが異なっている




直ぐに思いつくのは、経済的なメリットである。観光客が来ればそれだけ、地元の経済は潤う。特に観光地になった場所が福島やチェルノブイリのように大きな事故を起こしてしまった場所であれば、元あった産業は大きなダメージを受けるので恩恵は大きい。が、恩恵はそれだけなのだろうか?


チェルノブイリに行ったときも、福島にいったときも事故にかかった人たちは口を揃えてここで見たこと感じたことを発信して欲しいと言っていた(福島第一原発ではそうは言いながらもほぼ全面的に写真が禁止だったりするのだけれど)。そしてそれは、被災地に限らない話だと思う。カッパドキアでも、マチュピチュでも、京都でも観光地の人々は同じように話していた。


言い換えると、観光地(と観光地になりうる)の人々は我々観光客が観光地を訪れ、それを誰かに語ることが誰かの利益になると考えているのだ。

それは誰の利益なのだろうか?直ぐに思いつくのは観光地としての宣伝であるが、それであれば未だ観光地でない福島の人々の行動に説明がつかない。
だとすれば、彼らは、「第三者が語ること」がすぐには思いつかない誰か、いまここにはいない誰かの利益になりうると考えているのではないだろうか?


そこまで、考えてチェルノブイリで出会ったシロタさんが生まれたばかりの息子さんを愛おしそうに抱いている姿が思い浮かんだ。そうきっと、観光地の人々はいまここにはいない未来の誰かの利益になると信じて、我々観光客を受け入れてくれているのではないか。

 

 

未来の人々の利益になるというのはどういうことなのだろうか。我々第三者は多かれ、少なかれ訪れた場所について語る。今私がこのブログを書いているように。更に他の人間に伝搬し、時間をかけてさらに広まっていきやがて誰かの元で、別々に語られていた語りの共通項が抜き出されたり、場合によっては差異が強調されたり、アレンジが加えられ(解釈とよばれたりする)ることを繰り返し物語になる。この物語の内容は様々だ。内容によって、歴史と呼ばれてみたり、神話とよばれてみたりする。

この物語の力は強大である。物語は、人々に完成に数百年かかる巨大な建造物を何世代にもわたり作り続けさせたり、紙や電子上の数字さえあれば何でもできてしまうと思い込ませたりする。

 

f:id:s_s_satoc:20190921174933j:plain


というか、ユノバ・サノハリが「サピエンス全史」述べていたように共通の物語(彼は共通幻想と呼んでいる)を作り、それを信じることは人間の力の本質であるように思える。
大きな話のようにも思えるが、身近なところに物語に力が溢れているが落ち込んだとき、なにかがうまく行かなかったときに「別の誰かが立ち上がった話」を聞いて、自身が再度動きだすといった経験は誰にでもあるはずだ。

 

ウクライナのに住む人も、福島に住む人も訪れた人間が、自分たちの場所について語りそれがやがて物語になることを望んでいる。そして、それは未来の人々の為になると思っているからだ。

 

長くなってしまった。次回最後に、未来の人々の為にどのような物語を我々は語るべきなのかについて書いて被災地を巡る旅の締めくくりにしたいと思う。

今だからこそ読んでほしい「正しくも悪くもない、うんざりしない天安門の話」

今回は天安門事件について書いた安田峰俊さんの本「八九六四」を紹介しようと思う。

 

 


1989年6月4日に起こった、天安門事件は近代中国で起こった最大の事件である。民主化を要求したデモ隊のデモに対して、最終的に人民解放軍が投入され数千から1万人を超える犠牲者が出た事件である。発砲や装甲車による介入(デモ隊に突っ込んだ)すら行われたらしい。
「らしい」というのも、中国ではこの事件について語ることはタブーとされており正式な記録がのこっていないからだ(中国のスマホ決済で64とか、8964元とかを入力できないレベル)。


天安門は重大な事件である。しかし、この本が安田さんの本でなかったら私は読むことはなかっただろうと思う。
というのも、本文中でも言及されているが我々の側(自由主義とされている側、古い言い方だと西側)からこの事件について語ったメディアの論調はいつも同じだからだ。それは

 

民主主義は正しい。ゆえに民主化運動は正しい。それを 潰すのは悪い。 (なので、きっと将来いつか正義は勝つ)
(本文中より)

 

というものである。

私もこの紋切り型の結論に「うんざり」していた。結論が一つしかないのならそこから何も新しく学ぶことはない。加えて、今は本当に民主化が正しいとは誰も言い切れない時代になってしまっている。2019年の現在、ポピュリズムが台頭し「正しい」はずの民主主義陣営は混迷を極めている。一方で問題はあるものの(特に少民族問題)、中国の経済発展は続いている(もちろん経済発展だけが幸せの指標ではないが)。

このように感じるのは我々事件に関わっていない人間だけではなく、事件同時に民主化運動に関わっている人物にとっても同じようだ。


「正直、天安門の話で取材を受けるのは、うんざりしているんだ。当時は誰がどんなひどい目に遭ってかわいそうだったか、共産党政権の罪をどう思うか、みんな似たような質問をして似たようなメモを取って、同じ結論を記事に書くだけの話だろう? 最近はあなたのような取材者に会うたびに、『もういいよ。やめとけって』と内心で思ってしまってね」(本文より)

そんな扱いの難しい天安門事件についても「最果ての中国」や「「暗黒・中国」からの脱出」で素晴らしい視点を披露してくれた安田さんなら、新しい景色見ることができるのではないかと期待しながら、本書のページをめくっていった。

f:id:s_s_satoc:20190915172443j:plain

 

本書は天安門事件になんらかの形にして関わった人間に当時のことについてインタビューを行う形式になっている。
ありたきたりスタイルにも思えるが、
特徴的なことが2つある。
1つ目はあらゆる種類の人間に話を聞いていることである。当時のデモ側のリーダーの王丹やウアルカイシはもちろんのこと、一参加者だった自動車修理工、日本人留学生、果てはデモには参加しなかった人や、取り締まる警察側の人間にまで話を聞いているのだ。
これを行うとことで、当時の状況が立体的に浮かびあがってくる。
特に驚きだったのが、初期は「お互いに」非日常的な状況を楽しんでいたかのように見えるところだ。やがて、それは引き返せないところにまでいってしまい悲劇的な結末を迎えてるしまうのだが。
2つ目は、現在の状況と、それにともなうかなり答えてづらい質問(安田さんがありきたりな質問と呼ぶ「今デモが起こったら、あなたの子供がデモに参加させますか?」に代表されるもの)を行なっていることだ。
これを行うとことで、逆側の視点つまり天安門事件を中心にした視点ではなく、ある人間の人生の一点としての天安門を描く視点を手に入れることに成功しているように思える。言い換えるなら、デモが1人の人間の中でどのように消化されていき、ある人間を変えたのか(あるいは変えなかったのか)を描出しているのだ。

 

f:id:s_s_satoc:20190915172537j:plain


本書を読み進めていくうちに、天安門事件民主化運動のシンボルとしての役目も失いつつあること、しかしながらその息遣いのようなものが、確実に台湾のひまわり運動や、香港の雨傘革命、そして現在の香港デモに繋がっていることがわかる(とくに王丹やウアルカイシは大なり小なり関わっている)。

そのような経緯を踏まえると特に私には現在の香港のデモは、天安門事件リバイバルのように思えてしまうのだ。

王丹はのちに天安門事件が失敗した原因について以下のように分析している。

 

【1:思想的基礎の欠如】  一人一人の参加者が「民主や民主運動についての明確な概念」を欠いていた。結果、明確なイシューを打ち出せないまま広場の占拠が長期化し、運動方針の混乱を招いた。

【2:組織的基礎の欠如】  参加者に対するしっかりした指導の中心や指揮系統が存在せず、途中から運動が四分五裂に陥った。

【3:大衆的基礎の欠如】  学生と知識人だけが盛り上がり、一般国民(労働者や農民) への参加の呼びかけを怠った。また、政府内に存在するはずの改革派と「暗黙の連合」を組む姿勢をとることもできなかった。

【4:運動の戦略・戦術の失敗】  運動を政治目的を達成するための手段として使うという意識が薄かった。デモ参加者たちは学生運動の「純粋性」をひたすら強調し、当局への譲歩や一時後退といった柔軟な戦術を一貫して否定し、弾圧を招くことになった

(本文より)

 

このうち、3は今回の香港デモでは満たしていないように思えるが、1、2、4についてはまさに香港のデモの特徴のように思える。

今の時代、天安門クラスの軍事介入はないと思いたいが、明確な出口戦略がないまま(5つの条件すべて通すのは流石に無理があると思う)デモが長期化していなど、状況が似通より過ぎているのが気になる。彼らが無事日常に帰れることを祈っている。
安田さんの言葉を借りるならば、「大志を抱いた孫悟空の人生は、実は 筋斗 雲 を降りてからのほうが長い」のだから。

 

f:id:s_s_satoc:20190915172554j:plain

 

福島第一原発の視察(見学)に行ってきた。その2 


前回

福島第一原発の視察(見学)に行ってきた。その1 資料館内での説明 - Way to spin the fragment

は主に視察で受けた説明と、その説明に対する個人的な意見を書いた。

 

今回は説明を受けた以降の実際の視察の様子について簡単に書こうと思う。

 

説明後は廃炉資料館の中で、事故のあらましについてのムービーをみた。内容もそうなのだけれど、空間をうまく使った演出しており、かなり迫力があった。

追加の説明を受けた後は廃炉資料館の中を自由見学。が、僕と友人は専ら東電の方を質問して責めにしていたw
1人壮年の男性の方がついて下さっていたのだが、その方がとても知識人豊富だったので資料館を眺めるよりもその方と話すと方がより知識が深まったからだ(資料館が模型中心の展示内容だったからというのもある。)。

f:id:s_s_satoc:20190912225609j:plain

 

スマホを含むあらゆる撮影機器は持ち込み禁止なので、その場に預けていよいよ福島第一原発へ。

 

廃炉資料館から原発までは10kmほど。
チェルノブイリのようなゲートはないが、見慣れた景色の風景が廃墟と化しているのでチェルノブイリよりもショックは大きかった。また、ところどころに黒いビニール袋が積み上げられているのが、目についた。汚染した葉などを纏めたものらしい。
この辺の風景については、興味のある方はNetflixの番組(世界の現実旅行第2話)に動画があったように思うので、探してみて欲しい。

 

福島第一原発に到着。
企業練の隣の新事務本館(だったと思う。棟の名前は不正確やも)から中へ。新事務本館はとても綺麗な建物だった。
大まかな配置図はこのページが参考になると思う。

https://www.meti.go.jp/earthquake/nuclear/decommissioning/committee/osensuitaisakuteam/2018/11/2-3.pdf

 

中に入るにはIDカードが必要なので、ここで予め準備してされていたIDカードを受け取る。

 

中に入る際に面白いなと思ったのが、途中から土足厳禁になり靴を履く脱ぐこと。意図せぬ汚染対策なのだろうが、シューカバーではなく靴を履く脱ぐというのが日本的だと思った。

 

あと、ポイントポイントにスポーツドリンクがフリーで飲めるようにおいてあった。

中には入ってまずは食事。食事は1人380円だった。5週類ほどのメニューから選べた。俺は焼肉定食のようなメニューをオーダー。なかなかに美味しかった。量はごく普通。チェルノブイリのように量が多すぎるということはなかった(チェルノブイリでは作業内容によって量を変えているらしいので一概にはいえないが)

f:id:s_s_satoc:20190912230520j:plain

東電の方から頂いた写真1 食堂のメニュー

f:id:s_s_satoc:20190912225240j:plain

チェルノブイリ発電所での食事。美味しいけれど量が超多い

 

少し高い場所(7階とかだったと思う)より、全体を見渡す。
少し遠くに大きな施設を作っているのが目に付いた。質問をすると、汚染物を焼却する為の施設を作っているらしい。
2つ作っており、1つは東電管轄、もう一つは環境庁管轄とのこと。というのも、原発内と外で汚染物質の処理の責任母体が異なるらしいのだ。原発外でみかけた草木が黒いビニール袋の最終的な処理は環境庁が行うことになるらしい。

 

いよいよバスに乗って、事故を起こした原発の近くに向かう。一人に一つ線量計が渡される。上限は0.2mSv。このリミットの1/5に達するごとにアラームが鳴る仕組みらしい。
値の1/5に達するごとにアラームがなる仕組みになっている。
いくつかのポイントを回ったのだけれど、見どころは大きく分けて3箇所だと思った。
1.1〜4号機をまとめて見れる高台
2.事故を起こした2号機と3号機の間
3.津波で潰されたタンク
だ。

1.1〜4号機をまとめて見れる高台
バスの外に出て自身の目で1〜4号機を見ることができた。この場所は少し前まで、線量が高く普通の服で出歩くことはできなかったらしい。やはり、実際に自分の目で見ると迫力が違う。また、廃炉の進みぐあいによって、原発各号機の現在の様子が全く異なっていることに気づく。1号機は瓦礫が乗っていて、自己当時の状態に近いが、4号機にはチェルノブイリの新石棺のようなものが被さっており廃炉が進んでいることが見た目からも判る。この場所はバスの外にでたこともあり、前述の警告アラームが自分を含む何人かの線量計から発せられていた。

f:id:s_s_satoc:20190912230622j:plain

東電の方から頂いた写真2 4号機にはカバーがかかっている。

f:id:s_s_satoc:20190912230743j:plain

東電の方から頂いた写真3 一方1号機の上に瓦礫がのこっている。

2.事故を起こした2号機と3号機の間
バス越しとしはいえ、事故を起こした原発そのものに今回の視察で最も近づくの緊張する一瞬だ。近づいてまず思ったのが、「思ったよりも小さいな」である。原子炉一つずつは、記憶にあるチェルノブイリの新石棺よりも二周り以上小さい。また、重大な事故が起こったことや、繰り返し色々なメディアを使って放送されていたことから恐らく無意識のうちに自分の中でスケールを大きくしていたのだろうと思う。これは来てみなくては判らなかった。

 


3.津波で潰されたタンク
海岸側は津波の被害の跡が保存されている。その中でも、一番迫力があったのが津波で潰されたタンクだ。写真を探してぜひ見てみてほしいのだけれど、タンク津波の水圧でねじり潰されているのだ。その変形は完全に僕らの常識の枠外にあるので、突然タンクだけ見せられてもこのタンクに何が起こったのか理解できないかいと思う。なによりも雄弁に津波の破壊を物語っていたように思える。

1時間弱の上記のバスでの視察を終えると線量計のチェックが行われ、その上で体に放射性物質が付着していないかのチェックを行った上で(チェルノブイリでやったアレです)、外にでる。これで、見学は大まかには終わり。

 

最後に廃炉資料館で東電の方から、地域貢献についての取り組みについて説明があり見学は終了。帰路についた。

f:id:s_s_satoc:20190912225800j:plain

帰りに連れていってもらった福島の夜明け市場。おしゃれな店がいっぱい


次回はチェルノブイリと福島に行った上での体験の相違点について書いてみようと思う。

福島第一原発の視察(見学)に行ってきた。その1 資料館内での説明

以下全て個人的な意見ですので、悪しからず。また、情報は2019年8月現在のものです。

 

先日友人から貴重なお誘いを頂き、福島第一原発の視察に行ってきました。友人とは去年のチェルノブイリ以来の仲。二人で一年に一度、俺たち原発に行っているねと笑いあう。


本日のスケジュールは大まかに分かれると、廃炉資料館の見学と廃炉に入っている第一原発への実際の視察。
まずは、福原駅までJRを乗り継いで向かい東京電力廃炉資料館へ。

f:id:s_s_satoc:20190907190142j:plain


そこで、原発の廃炉についての現状の簡単な説明を受ける。説明はとてもわかりやすい。


以下受けた説明を超簡単に説明すると、原子炉は放射線性物質を燃料にした湯沸かし機みたいなもので、震災時に色々あって空焚きしてしまった結果爆発が起こってしまった(4号機は空焚きしてないのだけれど、配管が3号機とつながっていたので屋根が吹っ飛んでしまった)。

 

 


でこの結果何が大きな問題(というかミッション)になっているとかというというと以下の3点
1.空焚きしてる時に溶けて落下した燃料棒の回収。
2.使用済みの燃料棒の回収
3.燃料棒に水が触れると放射性物質が混じるので、その水を減らす。

このうち3は全ての1〜4号機共通の問題なんで上の二つを整理すると以下のようになる。

 

f:id:s_s_satoc:20190905233018p:plain



4号機はかなり進んでる。1、2号機はまだまだっていう感じ。

 

で、3の汚染水対策だけれど主に2つの対策をしている。
α.汚染水そもそも減らす
β.汚染してるかもな水を組み上げてチェクする。場合によっては水を隔離。

αに関しては破損してしまった原子炉と水の接触を減らすのが必要。水は雨や地下水の形で原子炉と接触する。ので、
a.原子炉周辺を舗装してしまう(雨と接触させない)
c.原子炉に屋根を築く(雨と接触させない)
b.原子炉の周辺に氷の壁を築く(地下水と接触させない)

の3つの方法がある。特に面白いなと思ったのが氷の壁を築く凍土壁という方法。効果がそれほどではないとの見方もあるけれど、時期を限定すればかなりの効果があるっぽい(東電は15年12月からの3カ月間と17年12月からの同期間を比較した場合、1日約490トンだった汚染水発生量が約110トンまで減少したと発表してる)のでよい方法なんじゃないかと。


ただ、説明された東電の方自身がおっしゃっていたのだけれど、凍土壁は本来トンネルの工事とかに使われる方法なのでこんなに長期に渡って動かしている例はないらしい。
可能ではあれば同時並行的に別の壁を築く方法を模索した方がよいのかもと思った。

 

β,の汚染してるかもな水を組み上げてチェクする。場合によっては水を隔離。
ってのは主に水の組み上げをによる対策。1の対策をしてもなお触れてしまった可能性のある水を汲み上げて、チェックを行って汚染が既定値以下であれば海に流すということをやっている。

 

とここまで書いて、汚染している(可能性のある)水には2種類あることに気づく。


水A-
1,2の溶け落ちた燃料棒と使用済み燃料棒を冷やすために使った水
水B-
βの汚染してるかもな水を組み上げてチェクするさいに組み上げられた水。


このうち、フィルタ等による徹底的な除去の後に基準を満たしていても水Aは海に流していないそうだ。水Bは流しても構わないことになっているらしいのだけれど。
この流せない水Aは現在タンクに溜めつづけているらしい。が、タンクを置く場所が将来的になくなることが確実で、何らかの対応策が求められている。このままのペースでタンクに水Aをためていくと、タンクの容量限界(置き場所の限界)を迎えるのが2022年の夏。現在のところ、タンクごと埋める、基準を満たしていてる場合には海に流すなどの対策が考えられているらしいがいずれの方放をとるにしても2年は設備の設置に時間がかかることを考えると、方針決定まであと一年の猶予しかない。

 

f:id:s_s_satoc:20190907190125j:plain

廃炉資料館内の模型



個人的にはきっちり基準を満たしているのなら、海に流しても良いと思う。ただ、その基準は厳しくあるべきで、かつ検査自体は信用できる第三者機関(可能ならば国外の機関)に委託すべきだろう。

 

長くなりすぎたので、次回に続きます。(思ったよりも量が多くなってしまったので全4回の予定です)

憧れの島

竹富島は憧れの島だった。高校生か、大学生になったばかりぐらいの年に見た携帯会社のCMで見た島がこの世のものとは思えないくらい美しくて、インターネットでなんという島なのか?日本のどこにあるのか?すぐに検索した覚えがある。もはやどんなCMであったのかも忘れてしまったのだが(たぶんこのCM?【CM 2003】KDDI ムービーau 30秒×2 - YouTube)、竹富島という美しい島にいつか行ってみたいという気持ちはずっとあった。

 

f:id:s_s_satoc:20190826224841j:plain

 

その後大学生になってから、数回、社会人になってからも数回、沖縄には行く機会があった。一人で出向いたことも、家族や友人や恋人とでかけたこともあった。けれど、竹富島に行ったことはなかった。

 

f:id:s_s_satoc:20190826223106j:plain

 

たまたま、お金や時間が足りなかったということもあるのかもしれない。けれど、 10回近く沖縄に行く機会があったのに、一度も憧れの島に行ったことがないというのはそれだけでは説明がつかないように思う。

 

行こうと思えばいつでも行けたような気もする。その間に石垣島には新空港ができ、八重山諸島は空前の観光バブルに湧いていた。石垣島も、竹富島も以前のように美しい島ではなくなってしまった「らしい」。そういう噂を聞く度に、もっと早く行っておけばよかったと後悔をした。

 

きっと俺は自分のイメージの中にある美しくて完璧な竹富島を壊したくなかったのだと思う。理想とは違う竹富島を見るのが怖かったのだ。

 

けれど、少し年をとって鈍くなったせいなのだろうか、ふと行ってみようかなと思ったのだ。本当にそれは、思いつきのような気持ちだった。

 

実際に行ってみて、竹富島は噂とは違い美しい島のままだった。天気にも恵まれ、空はどこまでも青く、海は透き通っていた。全てが俺が想像していたとおり完璧だった。

 

f:id:s_s_satoc:20190826224612j:plain

 

f:id:s_s_satoc:20190826224432j:plain

 

ただ、俺は竹富島よりも美しい海も、美しい景色も既に経験をしていた。
そのことを残念だとは思わなかった。そんな、景色に巡り会えていた自身の幸運を喜ばしく思った。

 

f:id:s_s_satoc:20190826225504j:plain

 


自分の想像力なんて大したことないなと笑ってしまいそうになった。

また竹富島に行こう。今度は大事な人達と。

 

f:id:s_s_satoc:20190826223344j:plain



 

2019年、夏、沖縄

約3年ぶり位に沖縄に行ってきた。石垣島をはじめとした離島がメインで、本島には立ち寄る程度だった。


沖縄不思議な二面性を持った場所だと思う。大学生時代に初めて訪れてから、おそらく10回近く訪れている場所ではあるが、その印象は変わらない。
「なんくるないさ〜」と南の島(というか東南アジア)特有のゆるい空気の流れる、リゾートとしての一面。そして、真逆とも言える哲学的なこと、政治的なことを考えさせられる重い一面。

 

20年前、Mr.Childrenは沖縄が持つ思索性の原因について「僕が初めて沖縄に行ったとき 何となく物悲しく思えたのは それがまるで日本の縮図であるかのようにアメリカに囲まれていたからです」と歌った。

www.youtube.com

 

初めて聞いたのが感受性の強い思春期だったせいであろうか、僕は沖縄に来るたびにこの歌を思い出してしまう。そして、沖縄の思索性の原因は「アメリカに囲まれているせいだ」と思っていた。だが、それだけが沖縄の思索性の原因でないことに今回の旅で気づいた。

 

というのも、単純に今回の旅では基地とそれに関するような施設、人を全く目にはしなかったらからである。にもかかわらず、何度か「物悲しさを覚えた」何故だろうか?

 

特に強く感じたのが、竹富島を訪れたときである。竹富島は琉球王国時代に島の伝説的な英雄である西塘により蔵元(行政)府が設置され八重山諸島の中心となっていた場所だったらしいのだ。

 

しかし、その事実を竹富島のビジターセンターで知った後、島を歩き回ってもその事実が信じられなかった。それは、琉球の歴史を示すような建物が島に残っていなかったというわけではない。逆である。過剰とも言えるぐらい、「我々が考える琉球の暮らし」を体現したような建物が島中に存在していた。そして、そんな過剰な「琉球感」に加えて点在する観光用の施設がこの島の嘘っぽさを加速させていた。一言で言うのなら、僕は「竹富島」という「琉球自体の暮らしが残っている島を再現したテーマパーク」に迷い込んだ気分になってしまっていたのだ。

f:id:s_s_satoc:20190826221728j:plain

 

この感覚はもしかしたら、僕が過敏なだけなのかもしれないとも思う。長崎に生まれ育ちすぐ近くに、オランダ村、ハウステンボスというイミテーションのオランダがあったから強く反応してしまっているだけのかもしれない。

それでも、テーマパーク化してしまってていた(ているように見えた)竹富島は、その過剰な「琉球感」が逆に「琉球の暮らしや文化」が失われつつあることを強く意識させた。

 

f:id:s_s_satoc:20190826222157j:plain

 


本物がすでにないから、本物に限りなく似ているイミテーションを本物があった場所に積み上げているように思えたのだ。

これが僕が沖縄に感じる「物悲しさ」の正体なのだと思う。
沖縄の持つリゾートとしての一面と歴史的な一面が絶妙に混じった結果、沖縄には「テーマパーク感」というべき独特の空気がある。それは、僕に強く失われてしまったものを想起させる。

 

 

琉球王国も、首里城も今はもうない。

f:id:s_s_satoc:20190826221354j:plain